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タイプライターか?

この間の土曜日に息子とハーグの中心街を歩いていた時、賑やかなショッピングストリートの交差する中心に小さな机を置いてそこに坐っている男がいた。 机の上には一台妙なタイプライターが置かれていた。

これを眺めていて自分がタイプライターを使いはじめてから現在に至る経緯を想った。 1974年、3年で単位を殆どとっていた大学の法学部4年を終え自分では満足が出来なかったので親や親戚の前で頭を下げて留年させてもらい1年間教育学部で英語を勉強した。 そこでは将来高校の英語教師になる学生に混じって授業を受け実習でカセットテープに入った5分ほどのBBCのニュースを聴き取ってその英語を書き下し翻訳して提出するような宿題があった。 そして殆どが手書きで出していた。 それまでに自分は骨董屋を廻りジャズのLPを漁ることを日常にしていたのでそんな店の隅に当時まだ新しかった Olivetti Lettera DL black という銀色に黒の筋が通ったキャリングケースに入ったコンパクトなタイプライターを見つけ安価に手に入れていた。 眺めたりただ置いておくためにはクラシックで重い鉄の箱のようなものがいいのだけれど当時のモダンなデザインが気に入ったし軽くどこへも持ち運びが簡単なこととケースに入れて何かの間に立てて置けば場所をとらないという利点もあった。 そのときはまだこのタイプライターを使うことには漠然とした考えしかなくモダンな骨董ぐらいにしか考えていなかった。

他に教育学部では将来小学校の教員になるための必須科目としてピアノが弾けることが条件でバイエルの100番ぐらいまでできなければならないということだった。 友人の何人かも奥行きがある細長い電話ボックスがいくつも並んだようなピアノ室でバイエルと格闘しており最先端のモダンジャズを聴いている自分にはピアノへの憧れはあるけれど20を越して始めてもとても満足できるところまでは行けるわけはなくギターでも少しはやっていたコードを覚えればいいかとバイエル片手に自分でやり始めた。 教則本の体裁では姿勢、指の置き方、動かし方、どの鍵盤にどの指を、ということから始めて将来華麗なピアニストになるための合理的、効率的な訓練をする仕組みになっているようだ。 右手、左手を同じように動かし、スケールの上り下りで徐々に指慣らしをして50番ぐらいから右と左が別々に動き始めるあたりで挫折した。 けれどこの小さなフレーズを何度も繰り返している中でも指の動きが腕から体に伝わりいい気持になるような経験もしている。

そんな経験をしたあとでタイプライターに接し、ピアノの鍵盤と同じように指の位置を説明書を読んでブラインドタッチが出来るようになった。 そうすると思いが指に伝わり鍵盤を見ずとも文章を追うことが出来て都合がいい。 宿題の英語ニュースの書き下しはそのいい訓練になったし、また当時ジャズ喫茶でアルバイトをしていた時、毎月20枚以上新譜LPが入ってきて、それを入荷順、演奏者別にリストを二種類作っていてそれまでは手書きだったものをタイプで打っていた。 その店にはLPは7000枚以上あった。 だからそういうリストはジャズの勉強には必須となる。 大学を卒業したときにはタイピストほどではなくとも一応は打てるようになっていた。

卒業後、大阪の中小輸出商社に新聞広告をもとに出かけて英会話で面接をしてからオファーの英文をタイプで打てと言われブラインドタッチでやった。 次の日から船荷証券書類を作る仕事をやらされそれから3年半ほど毎日プロ用のタイプライターに親しんだのがそれが Olympia SG3N 18" だった。 これは一人で抱えるのがやっとで自分のオリベッティと比べると小学生と力士ほどだった。 中小企業だからタイプライターといっても色々あって自分のものは一番頑丈で安定性がある標準タイプだった。 レミントンアドラーなどの古いが味ある使い慣れたものを使う先輩もいたしプロのタイピストでもあったシッピング部門のチーフの女性はオリンピアの当時最先端の活字金属ボールが廻る電動タイプを猛烈に打っていた。 船荷書類では税関用、銀行用など何枚もコピーが要るので表は用紙だがコピーは薄目の用紙が多くその間にカーボンペーパーを挟んでいつも4,5枚は必要だっただろうか。 2年ほどして営業に廻されると量は減ったがそれでもビジネスレターは2枚のコピーを作るのを常にしていた。

79年にオランダに来るため会社を辞めた。 80年の春に来るまで1年半ほどブラブラしておりそのとき会社の上司が辞めて独立していて秘書1人だけのワンマンカンパニーを経営していた。 海外の顧客を廻るのに3か月ほど留守をする、だからその間店番をしてくれ、小さくてもお前は雇われ社長だ、と言われ引き受けた。 必要書類は秘書の女性が全て整え自分は海外から電話やテレックスで指示されたことをするだけだった。 その時社長が使っていたオリベッティの新式タイプライター TES401 のブラックを自分のものとして使っていたのだがそれにはカーボンペーパーが要らないばかりか作ったテキストを小さなディスクに記憶させて好きな時にとりだして何枚もプリントさせられる画期的なものだった。 ワープロのはしりだったのだ。 ただ一行だけの短いディスプレーに赤い貧弱なアルファベットが流れるのが醜かったけれどそれでもそれまで普通のタイプライターだけに接していた者には驚きだった。 世間ではまだ和文が打てるコンピューターもワープロさえない時代だった。 それでも新聞社の活字はコンピューターで組まれたものだったのだからどんな仕組みになっていたのだろうか。 自分の友達の父親大阪朝日新聞の活字を組む職人だった。 けれどそれがコンピューターに取って代わられて職を失った。 それが1970年頃だったのではないか。 

80年にオランダに来てコンピューターにデータを打ち込む仕事をしていたけれどまだ和文は打てなく、83年になってからやっとコンピューターで和文が打てるシステムを万博基金の協力、京都大学の教授の肝いりで寄贈された。 そのときオランダ、ロンドン、ベルリンに贈られた3つのうちの一つだったと思う。 画期的なことだったのでその開所式にハーグから駐蘭日本大使がやってきてそのデモンストレーションのディスプレーを用意したのだがこういうことも今から考えると夢のようだ。 フォントが選べるわけでもなくIBMコンピューターの緑の画面に貧相な日本文字が出るだけのものだった。 そしてその後数年でワープロが一時に広がりそれからは一挙に今に至る感じだ。 今となってはそれが何だというような大したこともないように響くのだがその時々に於いては新しいものが出てくる度に驚きがあった。 そしてそんな今、能率性、効率性を考えなければ古いアンティークに愛着が湧く。 大体タイプライターや単体のワープロなど知らない若い人が増えていると聞く。 今はノートパソコンにタブレット、スマートフォーンなのだ。

目の前のタイプライターのようなものはキーだけがアンティークのタイプライターのものでそれはコンピューターのキーボードのキーを取り払い丸いキーを取り付けただけのものだ。 昔レターヘッドを丸めてタイプの活字があたるようになっていたロール状のものと左端にあるレバーは飾りだった。 男は詩人で客の注文に応じて詩を創りそれをタブレットのモニターで見せてプリントアウトして売るのだと言った。  タブレットに出るテキストのフォントはすり減ったタイプライターの活字のスタイルでそれをプリントアウトすれば旧式のタイプライターでタイプされたように見えるというのが売りのようだ。 つまり註文の詩を見かけのノスタルジーに絡ませて売る商売だったのだ。 自分が機械に興味を覚えてジロジロ眺めているのが商売の邪魔になるようで、だからそこを離れる前にこのデジタルのタイプライターをフィルムのカメラではなくデジタルの手に入るような小さなカメラで一枚というかワンショット撮った。

 

 

翻訳 格安